「先進国だからこそ、のむらづくり」

建築学会農村計画部門のセッション「いかに美しい国土(くに)をつくるか−国土形成の戦略的課題と展望」に「投稿する!」と言っていて、流れてしまった原稿(笑)。
このセッションは、「全国総合開発計画(全総・1962-)」の後継に当たる「国土形成計画」に関係したセッション。ってことは都市・農村のバランスをどのようにとりながら国土の保全開発を行なうか、が議題となる?  けれど、60年代と違って今はグローバリゼーションの時代。国内だけの視点で済むはずはないだろう・・・と思って書いたのがこの原稿。
きっかけは紀南地方の農山漁村。それに最近読んだ数冊の図書を重ねてみる。
おおかた出来ていたんだけど、どうもイマイチ納得できずで送信せずにいたのね。で、7月の怒濤の日々の中で放置され続けた。どうも出す気になれなかった。
とはいえ、せっかくだから、ブログに載せておきます。


「先進国だからこそ、のむらづくり」
和歌山大学システム工学部環境システム学科 助教 平田隆行
■美しき農村のイメージ
紀伊半島南部や兵庫・京都・滋賀県北部の農村を訪れるときはいつも、日本の田舎はこれほどまでに美しいところだったのか、と感じずにはいられない。貧農というイメージとはほど遠い、極めて豊かな生活空間、極めて階層性の低い社会。鍬を担いだおばあさんは、モンペの柄がろうけつ染めからプリント模様に変わっている他は半世紀前とほとんど変わりなく、山の緑は一層大きく育ち、家々は建て替えられても漆喰を使った瓦屋根の「田舎の大きな家」である。誰が見ても「なつかしき故郷」。先進工業国・日本はこれほどまで田舎を大切にする国なんだ、と感じてしまう。
しかし、こんなに豊かで平等な農村であるけれども、いや、豊かで平等であればあるほど、この農村がどうやって食べていっているのかわからなくなる。
多くの農村は「農村」であっても「農民」がいない。田畑で働いている人はほんの僅かで、しかも高齢、さもなくば兼業。村を通り過ぎるだけでは、若い人々が一体どんな職業に就いているのか、どんな仕事があるのかが全く見えない。農業機械や化学肥料の普及による省力化が「農民」激減の大きな要因かもしれないが、とてもそれだけでは説明にならないし、そもそも農業だけを基盤にしてこれほど豊かな村づくりが出来るとも思えない。
でも、このカラクリは少し考えればすぐに解けてくる。
高度成長期、「全国総合開発計画」や「日本列島改造論」が「国土の均衡ある発展」、つまり都市・農村間の格差是正を謳っていた。これは農村から優秀な人材を送り出し、その稼ぎを農村にフィードバックするシステムを構築することにつながっている。つまりは都市から農村への「仕送り関係」である。若い人材は都会に出てサラリーマンとなって税金を納め、税金は公共土木事業の交付金として農村にバラまかれる。言い換えれば、産業と労働力を工業都市に集中させ、利益は政権交代のない安定した中央政府が全国隅々に分配する仕組みである。かくして農村には「農民」がいなくなり、一方、仕送りで農家住宅は大きく、豪華になった。中央政府の交付金で縛られた公共施設・公共サービスは全国どこにでも同じものが支給され、道路整備は行き届き、車さえあれば山深くとも都市部と大差ない生活ができるようになっている。
こうして慢性的な余剰人口を抱え、小作農が多かった貧農のイメージは完全に過去のものとなり、いまや農村は、過疎だから「静か」で、お年寄りばかりだから「なつかしく」、競争が無いから「格差のない社会」というノスタルジックなイメージとなっている。これがいま、「心のふるさと」をもとめて都市民が農村に抱く癒しのイメージとなっている。
■先進国農村のアドバンテージ
「仕送り関係」を見ていけば、日本の農村は見捨てられたのでも、買いたたかれたのでもなく、温存された、ということがわかる。途上国と比較すれば、それはより際立ってくる。
途上国では、豊かになろうと換金作物へと転換し、市場で買いたたかれ、化学肥料と農薬に頼り、結果農地は荒れ果ててしまった。しかし、いまさら元に戻すことは不可能、結局出口の見えない構造的貧困に落ち込んだ。グローバリゼーションの中で使い捨てられたのである。さらにプランテーション農業に見られるように、もともと階層性に低い社会に超えがたい格差を植え付けてしまった所も多い。途上国では「農民」はあふれているのに農的環境は疲弊してしまっているから、頑張っても頑張っても肥料代ばかりかさんでしまって一向に豊かにならないのである。
一方、日本の農村は極めて肥沃なままだ。米は買いたたかれるどころか市場より高値で買い取られてきた。採算度外視で守ってきた田畑があり、山には管理しきれないほど木々が繁茂し、豊かな水が涌いている。インフラ整備は終わっているから、鮮度を管理して出荷し、トレーザビリティを徹底するなど現代的な出荷マネージメントも容易である。
和歌山県田辺市上秋津のような先進農業地域を見れば、日本の農村が本気になればいかにポテンシャルが高いのかがわかる。上秋津では国内の優良顧客、すなわち「違いのわかる」消費者をターゲットに商品開発を続けてきた。いまではブランドとして通用し、中間業者を経由せず消費者に農産物を直送するまでになっている。このように農産物が「地域ブランド」化していれば、米国や中国からやってくる安価な農作物と価格競争することなく、むしろ中国、インドなどに生まれてくる新たな富裕層数千万人に、高値で出荷することができる。しかも中国は近くて巨大なマーケット。キープしてきた農的環境を活用すれば、フランス産チーズやイタリア産のきのこなどのように後発国が真似できない高品質・高付加価値の農産物を提供できるはずである。日本の農村はバイオエタノールをつくるような農作物工場ではなく、安全でおいしい食文化を発信する文化地域になれる条件が揃っているのである。
■国土形成計画法に向けて
上記で見てきたように、これまでの日本は東京を中心とした太平洋側都市部でのみ労働生産性を高め、そのリターンを公共事業と言う形で農村に再分配してきた。しかし、そのモデルはすでに全く成り立たない。グローバリゼーションの進展、少子高齢化、開発主義からの転換・・・。都市からのリターンに依存しない自立的な農村づくりに早急に変えていかなくてはならない。
そのためには、なによりもまず、農村に産業を生まねばならないだろう。そうしないことには、どんどん人がいなくなってしまう。過疎はあるレベルを超えてしまうと、もう元に戻らなくなる。産業を生み出すために、いまある地域資源を見直し、グローバルな視点に立って、自分たちの地域のもっとも良い分を再発見しなくてはならないだろう。おそらくそれは、豊かな農的環境をベースにした農業にかかわるものが多くなるはずだ。そしてその産業を武器にしてグローバルな市場に「攻め」なくてはならないと思う。自由貿易を押し止めるとはとても難しい上に、「守り」の農業は「延命」ではあっても先がないことには変わりがない。農村から情報を発信し、農産物を直接世界に発送するために、地域と世界を直結するようなアクセスを可能とせねばならないだろう。
次の問題点は人材だろう。流失してしまった優秀な人材をいかにして引き戻すか、誘い込むか、どうやって「農民」を取り戻せるか、が鍵となるだろう。若年者労働人口を維持するのであれば、都市からのIターンはもちろん、外国人住民を多数受入れる必要もあるだろう。ひょっとすると外国系住民が村民の半数を超えることすらあるのかもしれない。都市民が抱く「古き良き農村」のノスタルジックなイメージとはかけ離れるかも知れないが、「あらゆる人」が農村に職を得、居を構えられるよう流動性を高めるべきであろう。
■まとめ
日本の農村は人材を都市へと送り出すことで、この50年間、都市からリターンを得つづけることが出来た。そのおかげで「古き良き心の故郷」は守られ、食料自給率が40%しかないのに、農地はまだ根強く守られている。しかし農村が送り出した人材は間もなく定年を迎え、今後都市へと新しく送り出す人材もいない。都市からの「仕送り」が途絶えようとしている今、農村から新しい産業を生み出す必要がある。それは地域を閉ざすのではなく開き、グローバリズムに抵抗するのではなく、攻めることで可能となるのではないか。グローバルに高品質な農産物を生み出すこと、グローバルに通用する生活文化を発信することが、農村はその美しさを維持することにつながるのではないだろうか。

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