阪神淡路大震災・被災度別建物分布状況図

1995年の阪神・淡路大震災では,関西の建築・都市計画の研究者が中心となって,建物被災状況の悉皆調査が行われた。多くを建築系の学生が調査した。
今年,そのデータがデジタルマップとして公開されている。
阪神・淡路大震災25年 災害デジタルアーカイブ」

現在の地図と比較できるので,特に区画整理事業が行われた六甲道,森南などのエリアは,バーをスライドさせながら見ると良い。

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1.17_阪神淡路大震災25年

5年に一度,行っている「1995年1月17日午前の自分の行動」の足跡のトレースを決行。朝4時に起きて,和歌山から神戸へ。9時に神戸を出て,2限の授業に間に合うように帰ってくる。

5時40分頃に現地入り。まだまだ暗くて写真が撮れない。
同じ道を同じような時間に順番に回り,同じ場所でシャッターを切る。

まちがどうなったのか,復興とはなんだったのかを考える。

あまり考えていなかったが,当日このルートを通ったのは,友人たちの家を順番に巡ったからなのであろうことを,今さら思い出した。竹内と岩本の家に向かったんだな,と。泉荘,エコーハウスなどにも向かったようだ,と。

1995年1月17日
2020年1月17日
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1.17_阪神淡路大震災20年_六甲道北の20年

阪神淡路大震災・六甲町

1995年1月17日0655,神戸市灘区六甲町

毎年,1.17では,このブログに1995年1月17日6時台から9時台にかけて神戸市灘区を中心に撮影した写真を出していました。
阪神淡路大震災の写真のアーカイブは進んでいて,神戸大や神戸新聞が大変素晴らしいサイトを構築されています。ただ震災当日の写真は少ない。特に発災当日午前は限られます。だからネットに残しておきたい,と思った次第。(削除を余儀なくされたものもありますが・・・)

ブログには出していませんが同じ場所で,同じ1月17日の,出来る限り近い時間帯に再訪することを,何度か行っています。

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産経新聞「防災減災わかやま」2014年2月 激増する空き家が避難路をふさぐ

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むらづくりの現場で住民の方に必ず尋ねる質問があります。30年後,あなたの家には誰かが住んでいると思いますか,という質問です。30年後も自分が元気に住んでいるかもしれないし,子どもが跡を継いで住み続けているかもしれません。あるいは誰も住み継がずに空き家になっているかもしれません。その回答を集落ごとに集計すると,30年後のむらの様子が予測できます。 30年後も住んでいる,という答えはあまり多くありません。クエ祭りで有名な日高町の阿尾という漁村では,30年後に集落の世帯数が半分になるという結果が出ました。紀美野町の複数の集落で行なった調査では30年後の世帯数は4割という結果が出ました。海南市下津町の漁村,大崎では3割に減ります。津波などの大規模災害を想定して減っているのではありません。ごく自然に,世帯数が30年間で半分から1/3になるのです。これは驚くべき数字です。 続きを読む

産経新聞「防災減災わかやま」2013年12月 危機感の欠如とあきらめの蔓延

今年度海南市に新たにもうけられた避難のための階段。ハードでもソフトでも「希望」を持つことで「あきらめ」に打ち勝つことが重要。

今年度海南市に新たにもうけられた避難のための階段。ハードでもソフトでも「希望」を持つことで「あきらめ」に打ち勝つことが重要。

 

東北の三陸地方で話を聞くと,東日本大震災以前から活発に避難訓練を行ったり,過去の津波浸水を確認したり,専門家を呼ぶなどの活動をしていた地域が多くありました。役所が設定した避難所に不安を感じ,大学の専門家を呼んで,避難所をより高い場所に変更しなおしていた漁村もありました。東日本大震災によって,三陸は大きな被害を受けましたが,それでも昔から津波に対して常に警戒をしてきた地域であることがよくわかります。

和歌山は三陸と同じく,定期的に津波に襲われる地域ですが,串本などの一部をのぞけば,津波に対する危機感は少なく,実に「おっとり」していると言われています。昭和の南海,東南海地震が比較的小規模だったからかもしれません。

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