座談会なんてのもあります

建築ジャーナル2005年11月号
さて、最近の「お仕事として書いた文章」の紹介。
建築ジャーナル11月号です。景観の特集。
本多友常教授、鳴海祥博先生、中西重裕さんとともに、建築風土記和歌山編にて語っています。(私はたいしたこと言っていません)
景観を育てて行くには、地域にその核となるような建物があるとよい、その場所の自然や風土の良さを引き立ててくれるような建物だとすばらしい、その核のような建物から景観を造って行くことができないか?
みたいなことをしゃべっています。
記者さんが文章書いてくれるので、すごく楽でした。
(口語体になっているものも、大抵は自分で書いておりますので・・)


抜き出すと、
>(建物の保存と継承に関して)旧中筋家が完全に残れば、昔の風景を再構築するきっかけになります。景観とは、核となる建築がキーとなるからです。
>(和歌山市中心部に関して) 市内全体で見れば、常に新陳代謝すべき地域が停滞して保存状態となり、残すべき場所に大規模なビルが建つというちぐはぐな状況になっています。それらを打開するためらも、住民自らが、かつて中心市街地だった場所の価値を見直し、若い人の血を入れてのまちづくりを始めたのです。

座談会なんてのもあります」への9件のフィードバック

  1. hiraです。
    コメありです。
    この2日はゆったりしています。
    >独自性がないですよね。
    別に独自性は必須だとは思いません。
    建築家の個性が求められるようになったのは、近代以降。だから疑ってかかった方が良い。建築に作家性は必ずしも必要ない。絵画や建築が、個人の作品として認識されるのはホントに近代以降だしさ。
    昔の文学は聖書や神話。音楽も宗教音楽や民謡。グレゴリー聖歌とか。ハイドンくらいからだんだん「作曲家」が出てくる。それと一緒。
    「独自性」を過度に求めると結構しんどいんじゃないかな。誰にでも出来るもんじゃないし。不安に苛まれるしなー。
    >「建築家になりたい」という欲望で建物をつくるととてもイヤらしい。
    といったが、建築的欲望がなんであれ、出来ちゃった建築が美しければ、私は超オッケィです。それがナチスの建築だろうが、オウム真理教の建築であろうが、アルカイダのアジトであろうが・・・。
    >目指す建築家像として、建てる場所の理解、場所に関わる利害関係者とのコミュニケーション、そして、建設できる悦びを持てる様になりたいと思いました。
    実際には、そんなコトをイチイチやっている分けには行かない、というのが日本の建設業界の内実です。鉄筋抜くくらいだもん。
    でも、その志はとっても重要。
    「書を捨てて街に出よう」(寺山)の先生とは木下先生かしら?

  2. hiraさん
    大変お忙しい中、コメントして頂きありがとうございました。
    >建物を建てたいとか、風景を創りたいとか、それよりも、「あんな建築をつくる建築家」になりたい。そういう建築的欲望ってどうなんだろ?
    そう言われると、グサっと来るものがあります。。独自性がないですよね。私も建築が出来たその先を考えてみたいと思う様になりました。
    hiraさんが仰る様に、生活と風景を結びつける様な建築を作ってみたい。。
    >「建築家になりたい」という欲望で建物をつくるととてもイヤらしい。
    今年も卒業設計の発表があったんですが、そのときに『書を捨て、町へ出よう。そして、書を読み、さらに町へ出よう!』という事を、しきりに仰っている先生がすごく印象的でした。
    目指す建築家像として、建てる場所の理解、場所に関わる利害関係者とのコミュニケーション、そして、建設できる悦びを持てる様になりたいと思いました。。
    最近こまめに、覗かせて頂いておりますので、またヒマな時が有りましたら、稚拙なコメントにお付き合いして頂ければ幸いです。
    お忙しいところだと思われますが、くれぐれもご自愛ください。

  3. こんにちは。まず、ひとつめから。
    ⇒hiraさんは建築家なのか?
    どうなんでしょう?
    ちゅうか、どうでもいい話なんじゃない?
    気になるのは、建築系の学生の大半が「建築家になりたい」こと。建物を建てたいとか、風景を創りたいとか、それよりも、「あんな建築をつくる建築家」になりたい。そういう建築的欲望ってどうなんだろ?
    正直にいえば、私だって最初は「建築家」になりたかったんだと思う。そのために切磋琢磨してガツガツとしている連中が集う、そんな環境に身を置くことを考えてた。学部の1年とか、2年とかは確実にそうだった。
    その後「建築家になりたいっ!」という欲望ってのは、なんかなー、と疑うまなざしを持つようになる。いわゆるスター建築家の影には、そういった「いつかは建築家」として頑張っている人がたくさんいて、それがスター建築家を支えているという、働き蜂のような状況が世の建築界にはあったし。それがいいとも思えなかった。
    「建築家になりたい」という欲望で建物をつくるととてもイヤらしい。
    そうではなく、「この建物が建ってホント良かった」と自分で思えること。さらに、「他にもそう思える人がいる」そういう状況をうれしいと思えること。それを悦びとして建物を建てる人動機を持つこと、それの方がいいな、と思うようになった。
    そうありたいなぁ、といつも思っています。だから、あまり建築家になりたいわけじゃないけど、建築に携わるのは結構いいんじゃない?とおもう。(明日に続く)

  4. (今日は返答できないです。また明日に・・つうか、前のコメントからまだ家帰ってない・・)

  5. Arakiです。
    ご返答ありがとうございました。
    大変勉強になりました。
    ただ、少し腑に落ちない以下の点が有ります。
    もし、よろしければお付き合いして頂けないでしょうか。
    ■hiraさんの立場について
    ⇒hiraさんは建築家なのか?
    どうも、ここで示されている建築の姿がよく見えないのです(良い意味で)。フィリピンでの集落調査からでも、「住まい」という建築を仲介として生活と風景が関係づけられている様に感じましたし、『高野口小学校』では、建築が目的となっているのではなく、参加する方々のコミュニケーションを促す為に建築がある様に感じました。やはり、どちらとも建築が主張していない。
    ここで、hiraさんの立場について戻るのですが、やはり「建築家」なんでしょうか?
    何となく、「参加する方々のコミュニケーションを誘発するコーディネーター」の様な気がするのです(もしくは、シンクタンク)。
    もし、その様な建築家像があるのであれば、目指してみたいです。ただ、その様なことを実践しておられる設計事務所が見当たらないので、インターンシップ等で体験出来ないのが残念です。
    ■芸術足りうる建築とは?
    ⇒次のhiraさんの文は、すごく分かり易かったです。
    >すべての絵画が芸術ではないでしょう。ただ、芸術足り得る絵画は確実にある。それと同じ。
    ただ、どうすれば、芸術足りうる建築だと直感で理解出来る様になるのかということです。
    私見として、次の方法はどうかなと考えております。少し短絡的とも思いますが。
    ?自分がどの様な方向性の建築を目指したいのかを定める
    ?その方向性にあった建築を勉強する。(もちろん、対極にある建築も確認しながら)
    ?実際に現地まで赴き、その建築が地域文化や、技術を後世に伝えようとする意思を直感で感じ取ることが出来れば、芸術的な建築とみなす。
    (「名護市庁舎」には事前勉強して、実際に行ってみようと思いました!『狂気じみた地域の再解釈』なんていう表現は始めてだったので・・・。あと、「批判的地域主義」についても勉強します。)
    ■最後のビルバオについて。。
    ⇒この名前が出なければ、hiraさんの仰ることは大体理解出来たハズだったんですが・・・
    これを出した意図は、『産業都市を経済的に(文化的にではなく?)活性化させた良い事例』ということですよね?
    (参考URL:http://www.dnp.co.jp/museum/nmp/nmp_j/review/0301/bilbao.html)
    これまでの文脈における『芸術足りうる建築』とは、景観、地域文化そして地域技術を後世に伝えるために、社会背景や環境を理解して作られた建築ということだと捉えました。
    なので、ビルバオはそういう意味での『芸術足りうる建築』ではなく、地域に根付く(貢献する?)『芸術足りうる建築』には様々な形態があるということを示すための例ですよね?
    以上、長々となってしまいました。
    すみません。
    まだまだ勉強不足で、申し訳ございませんが、改めてご返答頂ければ幸いです。
    ご迷惑をお掛けいたしますが、よろしくお願いいたします。

  6. Arakiさま、はじめまして。
    本文全文を読んでもらうと、誤解であることが分かると思います。
    ■まず、私の立場表明。
    産經新聞の連載の第一回目の出だしは、以下のように書いています。
    「日本は世界第二位の経済大国でありながら、景観は三流国。街なみや景観に対する意識が高まっているものの、どうすれば美しい景観を生み出すことができるのか、その方法は定かではない。だが一方で歴史的な街なみや古い集落は、万人が美しいと思える景観を有している。この違いはなぜ起こるのか。和歌山大学システム工学部環境システム学科平田隆行助手は「集落には人間と自然、個人と社会を上手く関係づける「住まうための文化」がある。そこでは安定して生きて行くことと住まうこと、美しい風景を造ることが連続している。つまり、毎日の生活と風景とがきちんと関係づけられている」という。山奥の集落を研究対象としながら、現代の街や建物の提案を行っている平田隆行助手に、フィリピンの集落での調査体験をシリーズで聞いていく。」(平田隆行、産經新聞和歌山版20060117)
    また、高野口小学校という木造大規模小学校を四苦八苦して改修しているわけで・・・
    「高野口小、なぜ改修か町の誇りは代替不可能
     ――高野口小学校の改修に取り組まれています。
     「赴任して間もなく、高野口町が一度決めた校舎の建て替えを撤廃し、使い続けることを決めました。地元の住民や建築士、県内はもちろん東京や名古屋の研究者までもがこの木造校舎が建て替えられることを惜しんでいたんです。町はその声を聞き入れたのですね。その後、校舎をどうやって改修したらよいのか、その調査・研究を町と共同ですることになりました。文化財保存の専門家や耐震設計の専門家、行政、また地域の方々、先生、児童、PTA、建築士などに協力してもらいながら改修案を練りました」
     ――なぜ建て替えではなく、改修なのですか。
     「ひとつは希少価値。戦前に建てられた大規模な木造校舎は全国的にもあまり残っていません。まちのなかにあって、現役で使われているものはほかに皆無ではないか。もうひとつは、代替不可能性。紀州材をふんだんに使って、地元の大工が高野山で磨いた技術をつぎ込んでいますから、まちの誇り、シンボルとなっています。地域に住んでいる人にとっては親子三代で子ども時代を過ごしているので、思い出がぎっしりつまってもいます」(奈良部健+平田隆行、朝日新聞和歌山版20060927)
    ということだから、あなたの立ち位置と大きくは違わないだろうと思う。地域資源を見直す、と言う意味では。
    ■建築は芸術か?
    こんな問いは不毛。
    あるべき問いは「この建築はアート足り得るか?」しかない。
    社会背景や環境を読み取り、器用に美しくまとまった「神が手を差し伸べて創ったかのような」建築はもう、芸術としか言えない。それは芸術足りうる建築を見て圧倒されれば、直感でわかる。「あー、これはもう芸術やな」と。
    すべての絵画が芸術ではないでしょう。ただ、芸術足り得る絵画は確実にある。それと同じ。
    ■「地域の技術・文化・場所の翻訳」=建築
    私は内藤広と同系(早稲田・吉阪隆正系)の建築哲学を教わっているから、内藤先生の述べるところの90%は同意します。が、ちょっと物足りないな。
    「海の博物館」(内藤廣)と、「名護市庁舎」(象設計集団)を較べると、「名護市庁舎」の方に圧倒される。あれはもう、翻訳ってレベルではなく、狂気じみた地域文化の再解釈。だが、名護が置かれた立場と気分、そして地域の色をとても上手く表現している。
    「批判的地域主義」という現代建築の議論があるから調べるといい。
    ■景観のキーとなる建築
    バラバラに崩壊している景観をもう一度見直したとき、その地域の景観や環境の良さ、を再発見しようとした時、「芸術的な、すごい建築」がその地域にあれば、バラバラになる前の景観を創造することができる。これは本当。その地域の良さを引き出すことができる。そういう意味で「キーとなる建築が重要」と言っています。かっこええ建てものをランドマークとして建てればいい、という訳じゃないです。(建築ジャーナルでは、「建てものの保存」を前提として座談をしていますので・・・)
    ただ、ビルバオ(ゲーリー)のような、ああいうランドマークの造り方もアリだとおもいます。成功しているし。(失敗したら目も当てられないが、それはゲーリーの造形力のすごさだ)

  7. はじまして。
    私、建築を学んでいる者(関西大学2年)ですが、hiraさんの仰る「景観とは、核となる建築が重要である」ということが、どうも腑に落ちません。確かに、景観構成要素として建築は挙げられますが、建築ってそんなに力があるのカナと・・・。
    最近、建築ってやはり芸術なのかなぁと、考える様になって面白くないなと考えています。自己表現を上手に出来る人が作った建築がスゴイと評価されるのかなとも。。実際に見に行っても、周りと分断されていて、地域の人からそっぽ向かれている感じがすごくします。
    最新号の日経アーキテクチャで、各地方自治体から、これからのケンチクカに求めるものとして、『地域の技術と文化を伝えるものを作って欲しい』と記してありました。これは、設計者の恣意性よりも、地域住民がそれを誇りに思い、育てていける様なものを設計して欲しいということだと思います。
    内藤廣さんも、『デザインとは技術や場所の翻訳である』と述べていました。
    まだ、自分の考えでデザインとはどうこう述べるレベルではないのですが、これらの考えからすると、建築って大変なんだけどやりがいがあるなと感じます。
    僕は、古びた(?)集落の景観がすごく好きで、狭い路地なんかワクワクするんですね。。ここに住んでいる方々はこれらに愛着があるんだろうな、こういうのを地域資源っていうんだろうなと思いながらと歩いています。
    これからは、地域資源を見出すことがこれからの建築・地域計画を行う上で重要なのではないのかと考える様になりました。
    デザインが『地域の技術・文化・場所の翻訳』とすると、「景観には核となる建築がキーとなる」というよりも地域資源は何なのかというより大きな視点を持つことが重要ではないのかと思います。そうしないと建築が育たないのではと思っています。
    こういう考えの元、hiraさんは「景観には核となる建築がキーとなる」と述べられていたのであれば、納得は出来るのですが、、、
    稚拙な表現が多く、大変ご迷惑をお掛けいたしますが、ご返答頂ければ幸いと存じます。
    よろしくお願いいたします。

  8. いや、たいしたもんじゃないし(笑)
    しかし、建築ジャーナルという雑誌、あまりよく知らなかったんですが、地域の建築、そして都市の景観という問題を取り組んでいて、編集方針が確固としている。一般広告が少ないし、誰が読んでいるのかわかんないのは確かですが、応援したくなる雑誌です。
    原稿料なんて要らんし。
    (産経に書いている連載すら原稿料が無いのだし)

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