広域指定暴力団・山口組の本部は神戸市灘区の山の手にある住宅街にあります。阪神淡路大震災では倒壊率の低い地区で,震災の直接被害はあまりなかったと思います。1980年代は山口組の組長をめぐる抗争が頻発し,一般市民が巻き込まれて死者も出ており,警察が24時間の監視していました。暴力団排斥を訴える住民運動もありました。
さて,その山口組ですが,阪神淡路大震災直後に,かなりのボランティア活動を行なっていました。全国的な暴力団組織のお膝元ですから,トップの号令で「いざ鎌倉」とばかりに構成員が集まったのでしょう。自衛隊さながらにキビキビと,黙々とボランティアに精を出していました。パンチパーマの男たちが、紙おむつを運ぶ光景はとても印象的でした。
当時,大災害の後にはパニックがある,デマが飛ぶ,略奪が起こると懸念されていました。実際に災害が来てみると,むしろ人々は災害に向かって助け合います。住民同士はもちろんですが,「いわゆる反社会」と呼ばれるような組織でも,地域のためになろうと活動したのが,1995年の阪神淡路大震災で見られた光景でした。
もちろん,排斥運動が起きるなど,地域との関係がよくなかった山口組にとって,地域貢献をおこなう千載一遇の機会だった,とも言えるでしょう。大災害下ではない状況で,このような施しをしても,地域がそれを受けとるとは思えませんから。とはいえ,実際にかなりの支援を行なっていたというのも事実ではないかと思います。報道機関がまったくそれに触れなかった,というのも印象的でした。
報道だけではわからないことが現場には起きているのだ,ということがよくわかります。(ちなみに当時,被害がひどかった地域の住民は,メディアによる報道にかなり懐疑的だったと思います。なので,私はいまでも,報道が被災地の様子を正しく伝えているかどうか,懐疑的なまなざしで見る癖がついています。現地で聞かないとわからんな,と。)
冒頭の写真は,1995年の1月24日(災害発生1週間)の写真です。山口組の支援活動を撮影した写真はほとんど出回っていないと思いますので,ここにあげておきます。
(ちなみに,本部正門を撮影するのはちょっと怖かったことを覚えています。見てはならないところを見ているような気がして・・・)
p.s. なお,被災直後にはメディアが美談として語るような助け合いばかりがあったわけでもありません。メディアが触れたくないような犯罪や争いも起こるし,同様にメディアが報道しない美談もあります。報道メディアは「いわゆる被災地」の絵だけを撮りたがり,住民が見ている現実とは違う被災地が報道されて行きます。それがどうも気に障るのです。