妖怪と環境

17日、神吉先生の送別会(3/1付けで京都大学助教授となられました)で、、「ハビタット」の中島先生と、「妖怪談義」に花が咲く。中島先生曰く、妖怪とは、ある現象を認識する時に便宜上用いられたもので、実際にあった話なのだという。妖怪が登場する理由は、そのときの人知では理解できなかった、もしくは堂々と言えなかった、のが原因だと言う。


たまたま
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を読みかけていて、興味深く聞いていたけど、家に帰ってしばし考えてみた。
「土着民」の「風変わり」な伝承や慣習は、決して未開で無知だから信じられていたのではなく、なんらかの機能がある。そう考えたのはマリノウスキーに代表される機能主義の人類学だった。この考え方に似ている。中島先生は、妖怪の伝承から、逆算して自然のサインを読む方法を探るらしい。
今でも妖怪が生きているフィリピンの山奥でのフィールドワーク経験に照らすと、確かにそういった「説明できない現象を説明する」ために妖怪が存在している面も確かにある。
ただ、わたしにとって妖怪がよりいっそう興味深いのは、奇々怪々で、両義的な妖怪の世界や神話や伝承によって、とても豊かな精神世界を垣間みることが出来るからだ。
二項対立の組み合わせとして構造主義的に分析すると、それをいっそう強く感じることが出来る。人間は、妖怪や神話や儀礼を使って、自然環境とは異なる、文化的な環境に書き換え読み替えてしまっているのだ。物理的な環境とは別に、人々によって意味付けられている心の中の環境がある。その心の中の環境を知る手がかりになるのが、儀礼や妖怪なのだ。ここに足を踏み入れると、近代ののっぺりした空間とは異なった、とても豊かで多様で、脳味噌が活性化するような空間を感じることが出来るのだ。

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