「文化としての住まい」-04_「野生を文化に変える棚田」

2006年2月7日産經新聞和歌山版「サイエンス・研究室最前線」
1980年代、フィリピン・カリンガ族の村々はフィリピン政府によるダム開発に反対、命がけの抵抗を行った。何故彼らは政府が示した代替地や保証金には目もくれず、そこまで山奥の村にこだわるのか? 和歌山大学システム工学部環境システム学科の平田隆行助手は、「村人が棚田を通してその土地に根づいているから」だという。単なる農地を超えて棚田に執着するのは何故なのか、平田助手に聞く。
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ーーダム開発の反対運動はそれほど大きな運動だったのですか?
平田助手 少数民族が国家に反旗を翻したわけですから大きな決断だったと思います。共産ゲリラと手を組んでフィリピン国軍と銃撃戦を行ったことも、世界銀行の国際会議に押し掛けて国際社会に訴えたこともあります。彼らの村はそこまでしても守るべき土地だった。他の場所では代替不可能だったので、すべてを賭けて戦ったのでしょう。
ーー棚田を通して土地に根づいているから、ですか?
平田助手 ものすごく簡単に言うと、そういうことになります。彼らが土地に根づいているのも、土地に縛り付けられているのも棚田を通してだと思います。
ーーなぜ、棚田によって人が土地に根づくのでしょう?
平田助手 少し前の日本人は「イエ」というものに縛り付けられていましたよね? ”お家断絶”をとても恐れ、先祖代々続く「イエ」を絶やさないこと。それが重要でした。日本では「イエ」の概念で祖先と繋がります。具体的には「イエ」を表す「墓」で繋がる。しかしカリンガ族は「イエ」の概念で祖先と繋がっている訳ではない。その代わりに「棚田」で祖先と繋がっているのです。つまり、自分が何者であるか、どこから来てどこへ行くのか、誰を引き継ぎ、誰に引き継ぐのか、それが棚田を通して行われているのだと思います。
ーー棚田を受け継ぐことで祖先を受け継ぐ、ということでしょうか?
平田助手 そうですね。自分が受け継いだ棚田を見れば、自分に連なって流れる歴史を知ることができる。そういうものとして棚田が相続されているのです。先週お話しした里山の場合は、森の利用と再生に並行して所有権が生まれては消えて行く。だから里山は相続されません。しかし棚田は個人から個人へときちんと相続されます。棚田の所有者を辿って行けば自分のルーツを遡ることができる。カリンガ族にとって棚田は単なる農地ではなく、自分のアイデンティティの一部ですらあります。だから棚田が人をその土地に根づかせるわけです。棚田は祖先とのつながりだから、他にどんな立派な土地をもらっても取り替えることは出来ません。
ーーしかし個人の所有物ということは、売買や交換もできるのでは?
平田助手 確かに棚田は売り買いが出来ます。しかし注意深く見ると、売買は親族間で行われていることほとんど。さらに、売買を行わない棚田があることに気付く。先祖代々守ってきた伝来の棚田はやすやすとは手放さないのです。
ーー何故、棚田を通して、なのでしょうか?
平田助手 カリンガ族にとって、棚田を造ることは人間の世界を造ることに繋がる偉大な仕事だと見なされたからではないでしょうか。村の外は野生の世界。手つかずのアンタッチャブルな世界で人は住めない。その少し内側に里山がありますが、人の手が入る世界ではあるけど、でもまだ人は住めないんですね。山の土地は自分のものにすることができないし、里山は水牛が住む場所であっても人間が住む場所ではない。その野性味あふれる土地を人の住む文化的な場所に変えてしまう唯一の技が、棚田の造成です。山を切り開き、土地をならし、畦をまわして境界をつくり、水を張って稲が育つ場所を設ける。カリンガ族は人と稲を不可分だと考えていますから、稲がすくすく育つということはもはや野生ではなく、「文化的な場所」だと見なされます。棚田を造成することは単なる土地造成を超えて、野生を文化の領域に変える、野生の土地を人間の世界に変えるテクニックなのです。そして、面白いことに、カリンガ族の住まいが建っている場所を調べると、すべてかつて棚田であった場所であることがわかります。カリンガ族の人々は、野生の土地を棚田に変えることでいったん文化の領域に組み込みことができ、その棚田をつぶしてはじめて、住まうことができるわけです。それでは次回はいよいよカリンガ族の集落と住まいについてお話ししたいと思います。

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