建築学会大会_「建築計画,その可能性の中心 -建築計画は集落を超えることができるか-」

2006年度日本建築学会(関東) 建築計画部門研究懇談会
2006年9月7日 9:15〜12:00,神奈川大学7号館13室
小野田泰明(東北大学),浅井 保(神戸大学),鈴木健二(鹿児島大学),林田大作(和歌山大学),平田隆行(和歌山大学),長坂 大(奈良女子大学),中谷礼仁(大阪市立大学),岡本和彦(東京大学),山本直彦(滋賀県立大学),佐藤浩司(国立民族学博物館),布野修司(滋賀県立大学)


(で,出した原稿。)
建築計画に関するノート
■なぜ、若い建築家や学生は建築計画という言葉を聞いたとたん、暗くなってしまうのか
建築計画学はあまり魅力的な学問だとは受けとられておらず、場合によっては良い建築をつくるうえでの弊害ですらあり得るという認識が一部にある。少数の例外を除いて、現代日本の普通の住まい、普通の建築レベルがお世辞にも質が高いものではないという現実があり、さらにその代名詞が(なぜか)nLDKで、不幸にも建築計画学が生み出したものだと(なぜか)信じられているからかもしれない。さらに建築計画とは、未だにエレベータの計画やトイレ衛生陶器の計画に代表されるように、適正な規模や数量を機械的に算定するものだと受けとられることが多い。それをさらに押し進めると、人口規模から図書館やら病院やらの平面が機械的に生み出されていくかのような、そんな印象を持たれてしまっている。建築家による創造的な跳躍や、いま・ここでしか成り立たないような個別性、そういったものをあらかじめ排除する仕組みこそが建築計画なのではないかと受けとられている節がある。つまり、建築計画学とは建築家が空間を構想するやり方とは全く正反対のアプローチだと捉えられてしまっている。建築学科を志望する学生の多くがスター建築家を夢見てしまう現状では、建築計画学にネガティブなイメージを持ちやすい。
本来、建築計画学とはビルディングタイプ別に標準化・制度化するためのものではない。そうではなく、ある建物の設計を考えるとき、その場所で、ユーザー、建築家、クライアント、ビルダーなどの関係者がその建物を十分考えるための共通の概念を提供することにあったのだと思う。もちろん、時代の要請によって、一定の建築水準の維持と大量供給のために標準化を進めたことがあったにせよ、それは一時的なものであったはずだ。
しかし、その一時的な標準化とビルディングタイプへの固定化という印象がよほど強かったのだろうか。建築計画学に依拠すれば設計者は権威づけられた根拠をもとに設計でき、あるレベルの質を維持することができる、そういった役割を求められ続けたように思う。さらには、建築空間を生み出すうえで複雑な要求や顔の見えない不特定多数のユーザーと対峙することを迂回し、直接プランニングへとショートカットするための根拠としての役割を建築計画は担ってしまったところがあるかもしれない。
しかしそれでも、設計活動に、建築計画学が取り組んできた問題設定そのものをまったく無視すること、敢えて考えないことが起こっているとすれば、それはやはり由々しき問題だと思う。標準化されることや既存のビルディングタイプなどは徹底して疑うことが大切だろうけれども、だからといって建築計画学そのものを否定したり、全てを無視したりする理由は全くない。「人間らしい建築をいかにして導きだすのか」という建築計画学が立てた問いに対峙することやめ、単なる思いつきの形だけを弄ぶデザイン・ゲームになってしまうこくらいならば、まだビルディングタイプのほうがましなくらいだと思う。
今問題なのは、建築計画学がいまだ有効か否かというよりはむしろ、建築計画学そのものに対する興味が失われつつあるという状況ではないか、と私は思う。建築計画学は今でも時には有効だろうし、逆に建築計画学の否定こそが有効な局面もあるだろう。それはケースバイケースであろうし、そのプロジェクトを統括する建築家がその都度、判断を行なえばいいことだと思う。ただ、若者が建築計画学に興味を持てないという現象はもう少し重たい意味を持つと思う。
■建築計画学は求められていないのか
今、建築家には従来型ではない建築のカタチをつくることが求められている。
どんな未来が予測され、それにはどんなカタチが適合するのか。従来のビルディングタイプをそのまま盲信するのではなく、状況を観察することからカタチを編み出し、さまざま人や才能を動員しながらそれを実現化する、そんな能力が求められている。近年、コンペを勝ち取った作品を見れば、建物の説明ではなくどのような根拠でその形が生み出されたのか、その発想のプロセスを前面に押し出しているものが多いことがわかる。従来型ではない新しいカタチを生み出すためのオリジナルな根拠、オリジナルな計画学を提出することがコンペを勝ち抜く条件になっている。それは既存の計画学を敢えて適用せず、「新しい課題には新しい解法」を与えること、それこそが新しい建築を生み出す作法だ、という印象を若い建築家や学生に与えつつある。
コンペ案に見られるように、その場一回限りで生み出された新しいカタチを生み出すための根拠は、たとえそれが単純で稚拙なものであっても、新しいカタチを求めるという時代の要請がある。一方、建築計画学は細分化・精緻化していけばいくほど、実際の計画に役立てられる機会は減っていっている。要求を洗い出しそこから建物の形を考えることこそ、本来建築計画学が得意として来た分野だったのに、である。
故に、建築計画学はもう一度、状況を把握し、生活を捉え、課題と問題を発見し、そこからカタチを導くためのデザインの学問として位置づけられ直さねばならないように思う。そしてそれは動線計画やプランニングだけにとどまらない、エレベーションや色彩、素材などを含めてカタチを決定していくための科学でありデザイン理論であるべきだとおもう。それこそが未だに「水準の維持と大量供給」の後遺症に悩まされている建築計画学が、本来の力を発揮する道ではないかと思う。
■建築計画は集落を超える空間をつくりうるか?
「建築計画は集落を超える空間をつくりうるか」という問いには、二つの意味があると思う。
一つは、近代建築の手法が人間らしい空間を手に入れることができるか否か、という壮大な問いかけであるだろう。
建築計画は70年代以降、量の供給から質の向上を目指し、住まいの文化的側面や心理的側面など、人間らしい空間づくりに向かけて大きく舵を切った。人間らしい空間をつくるための原理(というものがあるかどうかは分からないが)を抽出するるのは困難だったとしても、集落研究、伝統的な住まいの研究によって、個々の集落空間がどうやって出来ているのかを解明することは可能だろう。また、ひとつひとつの集落の魅力とはなんであるのかを知ることも可能だっただろう。よって集落がもっている魅力を正当に理解し、その現代的な最解釈と再構成を目指すことは当然なされてしかるべきだとおもう。もし仮に計画によってヒューマンな建築が出来っこないと諦めるのだとしたら、建築計画はそれこそ止めてしまった方がいいのではないかと思う。集落を超えられるかどうか、というよりはむしろ、超えられるよう、建築計画を前に進めて行く他無いのだと、そう考えたい。
もう一つの意味とは、ごく普通の建築の質、あたりまえに存在する建物や住まいの質を、建築計画はどれだけ引き上げられるのか、という問いかけだろう。
集落にごく当たり前に存在していた普通の建物と現代のアノニマスな建築の質とを比較すれば、集落的なるものの質が高いと認めざるを得ない。さらにその普通の建物がつくる風景・景観では、建築単体以上の圧倒的な違いが集落との間に広がっている。もちろん、建築生産の違いや地域社会の違い、社会システム、経済システムの違いが大きいかもしれない。そうだとしても、両者の間には建物を建てるうえで考えなくてはならないことや建物建てるうえでの作法に、大きな違いがあるからのではないか、と感じる。だから、建築計画学には日本の一般の住宅のレベルの低さ、一般の公共建築のレベルの低さをどうにか出来ないか、という課題がまず、あるはずである。
今日も明日も、深く考えず計画された、悲しくなるようなマンションが建てられていく。この現状を変えられるポジションにあるのは、おそらく、建築計画学の他にないはずである。集落を超えうるかどうかは分からないけれども、目指すべき目標、追いつくべき目標としての普通の建築のレベルが集落の中に示されていると思う。そしてこれも可能だと信じたい。

建築学会大会_「建築計画,その可能性の中心 -建築計画は集落を超えることができるか-」」への2件のフィードバック

  1. どーも、こんにちは。
    とはいえ、この懇談会、一日目の9時15分からスタート。まぁ、普通は見ないですよね。
    ちょっとした事件もありました。(笑)

  2. 先日はおつかれさまでした。
    この懇談会に参加すれば良かった、と帰ってきてこのブログを見て思いました。。。
    (ちゃんと懇談会のチェックしてなかった私が悪いのですが)
    どんな議論になったのかも興味があるので、また機会があれば話を聞かせてください。

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