毎日のごはん_Our daily bread

土曜日、「ちく玉天ぶっかけひや大」を食べ、時間をつぶして十三、久々のナナゲイへ。
ナナゲイは、「私をみつめて」という、引きこもりドキュメンタリー見て以来かも知れない。
さて、この日に見たドキュメンタリーは、「いのちの食べ方」という邦題がついている。森達也による同名の書籍(2004)に倣ってつけたタイトルだ。
タイトルから想像して、
「毎日食べているお肉やお魚、野菜は、いのちあるものだ。そのことに目をそらさないで見てみよう。」
という映画だと思っていた。
書籍の「いのちの食べ方」は、まさにそういう本だったし。
でも、映画を見てみたら全然違った。


いや、すごいね。
もう、とことんシステマティック!
オートメーション。
トヨタの工場のように、トマトが栽培され、リンゴが選別され、ウシが解体されていく。
感動的ですらある。
私達は食物連鎖のただ中にあり、毎日、「いのち」を食べて生きている。
でも、この映画の中に出てくる「いのち」は、あまりにシステマティックに生産されすぎていて、「いのち」ではあっても「たましい」がないんじゃないか?とすら思えてくる。
全部クローン牛なんじゃないか?とか。
「たましい」を感じるところは、と畜されかかった牛が、はじめてそれを悟って、ジタバタ抵抗するところ。もしくは、従業員がヒヨコを落っことすところ。
オートメーション生産ラインでの、「些細な間違い」にだけ、「たましい」を感じる。
この映画、説明字幕もアナウンスも一切なし。
会話も無し。
カメラも固定、動かない。
映画だと匂いもしない。
監視カメラの目線で、
延々と現場をとらえて行く。
フィリピンの村で、水牛や豚を数十頭しめたのを目にしてきた。水牛なんて壮絶だった。鶏なんて数えられない数をしめ、食べてきた。
でも、この映画にその壮絶さというか、壮麗さはない。
きわめてシステマティックなだけだ。
邦題としては、「いのちの食べ方」ではなく、「Our Daily Bread」のままが良かったかもしれない。どうしてもというなら、直訳して「いつもの食事」とか「毎日のごはん」で良い気がした。

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