学校のユニバーサルデザイン

あさみ新聞にトラバです。
下の文章では「障がい者」になっているけど、「子ども」でも「お年寄り」でも「へんなおっさん」でもよいです。
1:障がい者にとって使いにくいどうのこうの、は2次的問題であって、障がい者が排除・抑圧されて計画されることが問題の根元。障がい者の尊厳が保たれているかどうかが一番重要。だから公共空間を作るときに障がい者を対象につくることは大きな意味がある。メイスのユニバーサルデザインも、基本的には「だれも排除しないデザイン」を目指しているのだとおもう。その点で標準主義・普遍性をもとめたモダニズムとは異なる。
2:とはいえ障がい者の尊厳を保つ一要素として「使いやすさ」はもちろん大きな要素であることにかわりはない。
3:「障がい者に心地よい空間は健常者にも心地よいはずだ」という論理が一般的だが全てがそんなにうまくいくはずがない。逆にそういった考え方が「障がい者に心地よい」空間を抑圧する。むしろ健常者に心地よくなくとも障がい者にとって心地よいものをつくる論理が重要ではないか? 「車イスに乗っているから楽しい廊下」がなぜ世の中にないのか?


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ユニバーサルデザインってのは・・・
出自はアメリカの公民権運動にさかのぼるそうです。
ユニバーサルデザイン(Universal Design)は、バリアフリーデザイン(Barrior Free Design)に対抗してつくられた概念ではなく、障害者のためのデザイン(Desing for Handycaped)に対抗してつくられたのだと思う。それで、ユニバーサル(Universal・普遍的)と言った。被差別者に対する特殊なデザインが、かれらをさらに特殊な立場にする。ダブルスタンダード(二重基準、例えば女性と男性にそれぞれ違う道徳や評価等の基準を設け、何の矛盾も感じないこと)などが典型です。ユニバーサルデザインは、ダブルスタンダードを止めよう、と言ったわけだ。
でも、「誰しもが使えるデザイン」というのは、非常に「アメリカ」的。どだい無理。多様性ということをわかっていない考え方だと思う。(欧州ではユニバーサルデザインとは言わない国もある。) ユニバーサルデザインってのは、ほとんど無理です。だけど、無理だけど志として持っているべきものではあります。
個人的には、ユニバーサルデザイン(UD)の姿勢とは、標準化された相手ではなく、ある限定された集団を想定してデザインすることではないか、と思います。どうデザインしても使えない人が出てきてしまう。「だれでも(ユニバーサル)」いってしまうと、「だれかを確実に抑圧する。」それはUDではない。
「誰かと誰かを含む集団が、そのうちの誰か決してを排除せず、共存するための、尊厳を保つための生活デザイン」をいうのではないでしょうか?
そう、思います。
(071016、表現を一部訂正)

学校のユニバーサルデザイン」への3件のフィードバック

  1. nhyiさん、感想ありがとうございます。
    「文章が読みにくくて、ユニバーサルデザインになってない!」、というご指摘です。
    うぅ、確かにそうだ。
    「尊厳(そんげん)」「抑圧(よくあつ)」「慧眼(けいがん)」などなど・・・
    ブログ全部を読みやすくするつもりはないのですが、「ユニバーサルデザイン」のページくらいは、「子どもでもわかる」ように書こうかしら。
    でも「子どもでもわかる」ように書くのって、書く方にとってはとても難しく、能力が必要。
    頑張ってみます。

  2. よかった。ユニバーサルデザインについて詳しく知る事ができた。文章が長ったらしくて読む気になりません・・・・・・・・・・。
    もっと見やすく読みやすいページにしてください。読めない漢字もあるので子供も読めるように書いてください。

  3. なるほどアメリカ的か。そんな感じもします。
    ともあれ「障がい者に心地よい」=「健常者にも心地よい」の論理がうまくいくはずがないというのはhira氏の慧眼だと思いました。
    確かにそこのところ「きちんと議論されていないわりに脳天気ではあるな」と思っていましたが、そこまで言い切れずにおりました。
    それってホントなのか?と思いつつ理念形としてはとても受け入れやすいので、とりあえず盲従していた感があり、反省。
    「ダブルスタンダード(がある特定の人々をさらに特殊な立場に追いやること)を止めよう」から始まるというのは分かりやすいし、納得。その通りと思います。で、「健常者に心地よくなくても、障がい者にとって心地よいもの」というのは、全く思いもしなかった考え方ですが、そればかりでいいのかどうかは別にして、現在の世の中をそういうもので満たして行こうという意味では賛成。理念形としては分かりやすいし、その方が世の中は面白くなるだろうなあと思います。
    が、最終的には、それがまた新しいダブルスタンダードの誘発になりはしないか?と思わないでもないです。いや、こればかりはやってみなくては(あさみ的は)分からないですが。
    と、考えてきて、耳障りのよいUDってのがやっぱり「障がい者にとって心地よい空間は健常者にも心地よいはずだ」という形に落ち着いてしまう理由が分かったような気がします。誰にも受け入れやすいんだわ。きっと。それが実現可能かどうかは別にして。
    というわけで「車いすに乗っているから楽しい廊下」ちょっとこれから気にして考えてみます。

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