建築計画の学術体系のあり方を問う−フレームワークの再編に向けて

(学会PD)30日午後
パネラー:小林秀樹、竹下輝和、松村秀一、大野隆造、上野淳、服部岑生、西出和彦、倉田直道
司会:門内輝行、小野田泰明
情報価値:×
議論の活発さ:★
総合判定:×
■論点
高度成長期には花形だった建築計画学だが、現代にもまだ役に立つのか?
「使われ方」研究はどうなのか?
■PDレヴュー
(途中参加なのでわからない)
■感想
不毛・ふもう・フモー
ゴウを煮やした和大の林田先生が「自虐的なので来年から止めた方がいい。そもそも学生になんといえばいいのか?」と発言したほど。
実は前日、他大学の助手・技官と飲んでいて、「建築計画学での論文の大多数はおかしな問題設定のもとに手法だけを無神経に当てはめたゴミ論文を量産している」ことを議論していた。建築計画学では、手法が確立されてはいるのだが(SD法とか多変量解析とか)出てくる論文の大半はゴミ。ゴミならいいが問題はその論文を見て実作品に反映させる人がいることなのだという。
個人的には「ゴミ論文は紙の無駄だが、無視されるから人畜無害」だと思っていた。
出席していた鈴木成文は「計画系論文がたくさん出る世の中だから、全体のレベルが下がるのは当たり前。そのなかにキラリと光る論文が出てくれば、計画学としては十分成功だ」と発言していて、意見としては大変近かった。
「きらりと光る論文」は実は、研究者の直感的な勘やなど、「科学的」ではない?部分に依拠していると思われる。はたしてそれは継承されるのか? 継承されるようなフレームがつくられているのか?
現在の社会は不透明で、何が良いことで、何が悪いことががわかりにくい。社会の自明性が前提とならない社会では計画の向かうべき方向も自明ではない。そのなかで、論文を書くための論文、論文を書くための調査方法などが生まれる。時には「そんな研究やらないほうがいい」というものまである。論文を書くために書かれた論文は、そういった直感を得ることなく、手法を踏襲し、「標準化」という回答を得ること、それがすなわち建築計画学だと言う誤解を与えてしまっているのだとおもう。
でも計画学が無益だとは思わない。むしろ良い研究については、どんどん建築家にも読んでもらいたいものだ。あまりにも「建築家」は計画学で明らかになっている過ちを繰り返しすぎているから・・・
計画学とは、標準化を行なうものではなく、個別の計画のなかで説得力を持つデータを使って「予測」し、デザインを決めていく方法であったはずなのだから。

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