「文化としての住まい」-01_カリンガの村

2006年1月17日産經新聞和歌山版「サイエンス・研究室最前線」
日本は世界第二位の経済大国でありながら、景観は三流国。町並みや景観に対する意識が高まっているものの、美しい景観を生み出す方法は定かではない。一方で、歴史的な町並みや古い集落では、万人が美しいと思える景観が広がっている。この違いはなぜ起こるのか。和歌山大学システム工学部環境システム学科の平田隆行助手は「集落には人間と自然、個人と社会をうまく関係づける『住まうための文化』がある」と指摘する。そこでは毎日の生活と風景とがきちんと関係づけられているという。山奥の集落を研究対象としながら、現代の街や建物の提案を行っている平田助手に、フィリピンの集落での調査体験をシリーズで聞いていく。
young mam and her child at Kalinga village


 ――建築と集落研究は、全くの別物のよう気がします 
平田助手 もともとは合理的でかっこいい建物を造る設計に興味があったのですが、だんだんかっこいいと思う根拠を疑い始めました。大抵は作品集や旅先で見た有名建築のイメージが根拠なんですね。いくら質の高い建築デザインでも根拠がメディアですから、できた建築もメディアでは力を発揮できても、どうも地に足がついていない。生活や地域社会と切り離されたものになりがちです。
 ――それで人々が実際に住む集落に注目するようになったのですか?。
 平田助手・そうですね。集落がとても美しく、住んでいる人たちが生き生きして見えたんですね。そして、旅行のついでにフィリピン山奥のカリンガ族の村に立ち寄りました。もちろん、山奥の伝統的な村を選んだのですが、実際には現代に生きている同時代の人々でした。ただし、私の知っている日本の社会とはかなり異なった世界に住んでいましたが。
 ――どういう点で異なっているのでしょうか?
 平田助手 例えば彼らの社会には警察も法律も戸籍もあってないようなもの。土地争いや傷害事件などのトラブルは場合によっては相手の命で代償を得る、血讐の慣習をずっと昔から維持しています。日本では人を殺すことは悪いことだとされていますが、カリンガでは血讐に成功すると英雄になります。村の秩序を維持するためには人を殺すことも奨励されるのです。それほどの違いがあります。
 ――とても、同時代に生きているとは思えないのですが?
 平田助手・血讐の方法は槍を使ったものからライフルでの狙撃に進化していますし、子どもはドラゴンボールのプリントTシャツを着て走り回っています。ブッシュ大統領の話題もでれば、二酸化炭素の排出規制も知っている。同じ現代を生きていることは間違いありません。
 ――とはいえ、非常に物騒な場所に聞こます。調査は危険なのでは?
 平田助手・血讐の存在が直接の脅威にはなりません。村の中にいる限り、むしろ安全だといえるかもしれません。窃盗や傷害を起こしたら死をもって償わねばならないわけですから安易に罪は犯さない。村の中の治安は抜群によいのです。もし、何の理由も無く犯罪に巻き込まれた場合、私を村に入れてくれたファミリー達が必ず復讐をします。普通に振る舞っている限り安全なのです。
 ――治安の悪化が叫ばれる日本より、よっぽど住みやすいかもしれませんね
 平田助手・血讐はなんであれ、誰もが納得する理由がないと行われません。一時の感情に流されることも、猟奇的に行われることもない。社会が当たり前だと思っているルールにのっとって行われます。動機がよくわからない、不気味な犯罪が目立つ日本に較べると、敵がはっきりしているという意味では安心できます。ただ、血讐は犯罪を犯した当事者に対して行われるわけではありませんので、自分の同類が過去に何か犯罪を犯したりしていると血讐の対象なることもあるわけです。
 ――例えば同じ日本人だからという理由で復讐の対象になってしまうのですか?
 平田助手・そうなんです。でも、そこがとても重要なところです。村人に「あなたは何族?」と聞くと必ず村の名前で答えます。フィリピン人やカリンガ族というアイデンティティではなくて、村が基盤。なぜなら村が首狩りの戦いの防衛単位だからです。最後に自分を守ってくれるのは村。復讐をするのも村。だから村は強く団結していて、あたたかくて、土地や資源を共有できる。
 ――血讐への不安が、村の結束を強めているということですね?
 平田助手・まさにそうですね。でも村が常に自閉しているのではなくて、状況に応じて閉じたり、オープンになったり、さまざまです。不安が少ない時は村を超えた婚姻も盛んになりますが、ひとたびトラブルが発生し、危険な状態になればすぐに村を閉じる。それが彼らの集落です。次回からは、カリンガの村が閉じたり開いたりする様を具体的に見てみましょう。
(写真_328.jpg_キャプチャ)
電気も水道も車もないが、接してみれば同時代の人々

「文化としての住まい」-01_カリンガの村」への2件のフィードバック

  1. ありがとうございます!
    最近、ブログから遠のいて、気になっていたのですが、リユースできるコンテンツでしばらくやって行こうと思います。(エントリがアップされるとやはりカウンターが上がりますね)
    さてさて、「どんな興味か?」なんですが、入るまでは何もわからん状態ですので、白紙です。とにかく、普段想像できないような、全然違う世界があるんやなかろうか?という興味でした。
    わたしの場合、「これが見たい!」っていう動機はあまりないのですね。
    そういえば、飯を食べに行く時も、「あれが喰いたい」というよりは、「なんやこれ?うまいんか?くうてみよかな?」というチャレンジャー欲求の方が大きいなぁ。
    もちろん、痛い目にも遭うわけですが。
    なお、このシリーズ、あと11回分のテキストがありますです。

  2. ほー。なかなか面白くなりそう。
    hiraさんがフィリピンの山奥にどういう興味をもって入って行ってるのかが見えて来そうな気がします。今まで、その研究は何の役に立つんだとか役に立たなくてもいいんだとかいう話はしたことがありますが、どんな興味をもっているのかというのは、きちんと伺ったことがありませんでした。
    次回も楽しみ。

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