修論_中間発表

土曜日、大学院時代の後輩中心に呑み。ドイツに行ってきた話を聞く。視点が「学生」のレベルに戻れるのでいろいろと示唆に富む話になる。そういえば、教官ってこうだったなー、と。(反省)
さて、27日に行なわれた修士論文中間発表について、やっぱり言及しておこう。
ゼミの学生と相談する上での姿勢はわりと明確にしておいた。そのことについて。


1:対象を絞らないこと
学生が行なったことに対し、論文にしやすいテーマに論点が狭まらないよう気をつけた。論点を絞った方がいい論文は多々あったが、中間発表の段階では、やったことを全部見せるべきだと感じていたからだ。それは論文の完成度とは相反するけれども、「私がこれまで必死にやってきたことは何だったのか?」をまず表現し、伝えてほしかったからであるし、現段階で「論文」に仕立て上げるために対象を絞ることの意義を、私自身が感じないからだろう。以下に詳しく述べる。
2:価値合理性の獲得
1で述べたことは、「私の活動はこれだけの価値があったのだ」ということをアピールすることである。それを理解してもらうことである。それは論文の『価値合理性』(by マックス・ウェーバー)を得るということだと思う。 論文の「価値合理性」とは、そのテーマに取り組む事自体が、どんな意味があるのか、どんな価値があるのか、である。それをクラスタという異種分野混在の教官に問うわけだ。これをまず主眼に置いた。
逆に、切り捨てたのは「目的合理性」すなわち、ある目的のために、正しい手順、効率の良い手順を踏んでいるかどうか?だ。もちろん論文である以上これを無視するわけにはいかないため、でっち上げでも作ってもらったが、その質については問わなかった。今回の中間発表で各教官から批判を受け、アイデアを受け取ることこそ重要であるのだから。現段階では目的合理については、細かいいちゃもんをつけず、論文を「書ける範囲」に限定しないことを考えた。
3:位置づけと理論構築
上記から、まず背景・目的を明確にすることを指示した。これは簡単なようだが難しい。抽象論をさけ、出来るだけわかりやすい言葉に還元する。フィールドを持って活動しているものにとってはデータが膨大で、路頭に迷ってしまうのもここだ。
この理論構築については最大限手伝うことにする。それは「対話」で行なう。ヒラタという聞き手に向かって話してもらう。不思議と他者を想定して『対話」してもらうとうまく流れが掴めることがおおい。
さらに、院生が無意識下ではわかっているけれども言語化できないもの、を引き上げる。「あなたがやろうとしていることはこういうことなのではないか?」ということだ。ここでは出来るだけ「私の関心」「私の価値観」を押し付けないようにしたつもり(とはいえ、押し付けちゃうものだが)

修論_中間発表」への3件のフィードバック

  1. とにかく、価値合理的にはクリアした。
    ここからは「心意気」ではなく、「構築力」です。
    言いたかったことは、「論文にならないものも含めて、表現しとけ」ってこと。ここからは「論文にする」ことだけを詰めていきます。

  2. なるほど、ということはこうなることも予想してたんですね、、、イジワル。
    まぁなんしか結果オーライってわけで、これからが勝負っちゅうことですね。がんばりまーす!

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