設計製図ピンナップ・レビュー&OneDayエクササイズ

.HMRでも触れてるけど、設計製図の中間発表があった。模型表現とプラン・断面を条件にしているが結果は悲惨。
はじめてだからか?それとも今年は時間が短いからか?いい作品が少ない。なんだこれは・・・・ちょっと考えなくてはならない。学年の色なんだろうか?

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ランドスケープデザイン

アマゾンから図書が届く(クレジット期限切れで大幅に遅延)
飯田哲也「北欧のエネルギーデモクラシー」、鳥越浩之「環境とライフスタイル」(既読)、あとは趣味で村上春樹の新刊、障害者向けの性的介護のレポート本など。村上「アフターダーク」は「スプートニク」よりもつまらない作品。ただ相変わらず「この話は私のこと何じゃないだろうか?」的既視感があって、それは村上春樹の力量だろうな。(”ゴミ箱”のような男「高橋」)
yagik氏に連絡し、ランドスケープ関連の参考図書やら、人材の状況を聞いた。
以下、簡単に・・・

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広島・加計町合宿

前日深夜の作業場
21日から23日まで、京都嵯峨芸術大学・和歌山大学・大阪市立大学・神戸芸術工科大学、4大学の建築系学生の建築合宿が、広島県山県郡加計町にて行なわれた。
これは、京都嵯峨芸術大学の藤木庸介先生(建築家)がオーガナイズしてきたもので、丹波・奈良に続いて3つ目のフィールド、4回目の開催となる。
今回、私はジュアラー(笑)として参加した。こういうのは大抵「縁の下部隊」として参加することがほとんどで、「ジュアラー」なんてはじめてで、不思議だ。
ジュアラーは、本多友常教授、藤木庸介先生、中谷礼仁先生、志柿敦敬先生、幸家太郎先生。

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スタジオ運営

先日言っていた、建築教育論(やな言葉だな)の原稿です。
もちろんここから手直しが入るけど。
全体的には後半部分です。
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「つながる場所としてのスタジオ運営」
学生が地域に出て自分のフィールドを持つようになると、問題を発見し難問を突きつけられ、日夜作業に追われるようになる。するとどうしてもその作業だけに没頭してしまう。しかしグローバルで同時代的な問題、あるいは社会や歴史に通じていると解決の糸口が見つかることもある。ローカルで活動しつつ、世界最先端で話されている言葉を知ること。ローカルな問題をコンテンポラリーな問題として捉え、別の世界に向けて発信すること。この、ローカルな実践とグローバルな情報が交錯する場所として、スタジオの意義がある。フィールドでは問題をつかみ取り、スタジオでは情報を交換し合って知恵をだす。それを武器にもう一度フィールドに向かう。ミクロに観察しながら複眼思考で眺めることを学ぶのである。異なる得意分野を持つ人が突然口を挟む「偶然』が起こりうる場所、グローバルな建築情報が自ずと集まり、なぜか知ってしまう場所、たえずだれかと議論をおこなえる場所、それこそがスタジオなのである。ここでは一方的に知識や技能を伝えるというよりはむしろ、たえず「なにかが創られて」いて、たえず「何かが起こって」いて、たえず「何かが集まって」くる場所である。この状況を創り、維持することが、建築を学ぶ環境づくりとしてとても大切なことである。
トナリは何をするヒトぞ・フィジカルなスタジオ空間
隣にいる同級生が楽しそうに行っている作業がなんなのか? 何を深刻そうに考えているのか? 共通する問題はなんなのか。無関心を装いつつも、隣の机の作業の進み具合はやる気とレベルをインスパイアする。それだけではない。この横目で見ていたことが後々大きく役に立つ。自分も似たような課題に直面する日がきっと来る。その時、この隣の机で行われた作業を思い出すかどうか? 同じスタジオでいろんな人がバラバラに、ところ狭しと作業することは一見効率が悪いように見えるけれど、時と場所を共有して考える場こそが建築教育スタジオの醍醐味だ。だから、建築設計のスタジオは、設計・研究のテーマを絞り込むのではなく、できるだけ多様なテーマが同居していた方が、包容力が豊かな方がいい。ちょっと難しい文献を読む読書会、人を呼んでの講演会などがたえずプロデュースされていることが大切である。
Think globally, act locally・ネット上のスタジオ空間
ヴァーチャルなweb空間がコミュニケーションを補完する。先輩、後輩、卒業生、教官、地域、他大学、地域、異分野。それはいま何をしているのかをたえず世界中に発信し、フィードバックを得ること、だ。
かつての地方大学は情報の中心から遠いという不利な条件を抱えていた。それは情報が集まらないということではなく(情報を得ることは昔からさほど難しくはなかった)情報を発信する機会を持てないということ、つまり雑誌社などマスコミとの距離だった。それは「どうせ地方だから」というあきらめと、「いくら良い建築を建ててもメジャーにはなれない」という劣等感を抱かせた。だが、今は違う。ローカルでしかなかった試みが広く評価される可能性が開かれている。それはネットの力である。学生が今行っているプロジェクトを、そのまま公表し、設計演習の結果を世に問うことができるのだ。手軽に双方向に発信できるブログ(blog)やコンテンツマネジメントシステム(CMS)を安価なPCの上に組み立てるだけで、自分の言葉を世界に発信する「可能性」を持てる。世界に向かう緊張感を持つのである。
もうひとつ、ネットのスタジオの持つ重要な意義は、卒業生、つまり異世代のつながりだ。就職先での実践報告から現役学生への助言、就職・アルバイトの募集、最新の建築情報など意義は多い。常に学び続けなければならないのは卒業生でも同じこと。生涯にわたって学び、また自分の成果を還元する場所としてのスタジオがネットの上にあることは、現役学生、卒業生とものメリットがある。さらにネットでつながっていさえすれば、年に一度くらいはフィジカルなスタジオにも集まって直接議論もできるだろう。
建築教育とは、学生自身が建築との対峙の仕方を自ら試行錯誤して学習する行為である。発見すること、つくること、発信すること。たとえコストにあわないものであれ、真剣に調べ、何度も創りながら壊し、世に問う。このサイクルを行なえる状況・機会・場所をつくること、これが建築教育の実践に他ならないであろう。建築設計教育の実践とは一握りのエリートにデザインのオリジナリティを開発させるものではない。むしろ建築が理想的に生み出される場所を維持すること、その環境の中で建築を考え創ってみるという経験を与えることにあるのではないだろうか?