51Cと維新派

16日、未明にOSXのサーバにログ解析ソフトanalog5.32をインストールして設定。cronを使って毎日ファイルを保存するように設定。動作を確認して帰宅。そのまま湾岸線をひた走り神戸へ。朝日がまぶしい。
3時間程寝てから神戸芸工大へ。鈴木成文先生の公開講義「”51Cは呪縛か?”シンポジウム総括」。有村さん吉村さん(いるか設計集団)、浅井先生(神戸大学)なども来ていた。
助手(美人系)のパワポ操作がいまいちスムーズではなかったけど、大変気合いの入った講義内容で、一時も気を抜けない。鈴木成文・吉武泰水による51c型標準設計の誕生物語は「昭和住宅物語」(藤森照信)や「いえとまち」「住まいの計画・住まいの文化」(鈴木成文)にて知ってはいたが、それでも十分聞くに値する。
さらに、山本理顕や上野千鶴子との論争をわかりやすくまとめており、最新の情報も。
特に論点をあげると
・51cという標準型はある時代背景があったから生み出されたものに過ぎない。当時は35平米に何人もの世帯が住むためにはどうするかを考えていた。
・現在の住宅は面積が倍、世帯人数は半分になり、広さは問題ない。だから標準型ではなく間取りを変えて好きなように住めるようにすべき。
・むしろ今問題なのは、いえとまちとの問題。どのように社会とつながるのか?こんな閉鎖的なものでいいのか?むしろ住んでいる人の気配を感じられるような住まいが必要。
・51cはnLDKの発祥だと考えられているが、全くそんなことはない。nLDKが流布しているのは住宅が商品化されたことが原因。
・日本の商品化住宅は面積も十分であるのに、nLDKで画一的。これがおかしい。
・DKを発明したと言われるが、これも違う。既にあった住まい方を取り上げただけ。
・DK的なすまい方は1割に満たなかった。統計的にはとるに足りない数字。しかし、フィールドワーク・ヒアリングを続けている中で「実感」としてこの住まい方がこれからの住まい方であることを感じ、公共住宅に取り入れた。「実感」が大事。この一割の現象を読むことができた。それが良かった。
などなど。まだまだメモもとったけど、また気が向いたときにでも。
17時、芸工大を出て、南森町へ。途中で泡盛を購入。
稲垣純建築事務所(アベ様thanks)にて、ArchiReviewの飲み会。維新派の屋外セットを担当する稲垣さんのお話を聞く。
徹底的な反権力・アングラなところがある。「具体」の話。
世に注目される「建築家」ではなくて、アホなことを真剣にやれる建築家が少なくなってきていること、それをサポートするならいくらでもやること、を説いてくれる。「あるセンスの建築はもうええ。それよりナンセンスや。」篠原有司男の「モーターサイクル・ママ」のように、ごく普通のおばちゃん、おっちゃんがゴタク抜きに「おもろい」とわかるようなモノをつくってほしい、と。
無名に近い稲垣さんだが、かれはわざわざ有名になることを選ばなかった、実在派建築家。あくまで大阪をベースにする維新派と同じく、マスメディアから独立した存在。
11時前になって谷9へ移動。そこで私だけ通りがかりのおばちゃんに捕まって、フィンランド航空の機長(58歳)のラストフライト記念飲み会の通訳を行う。なんなんだ? 62歳やら61歳やらのおばはんと輪になってビールを飲み、抱き合ってお開き。で、稲垣淳さんのいるバーに行くと、そこには松本雄吉が。
井戸くんと安部さんと3時過ぎまで飲み、明け方帰宅。<%image(20040720-DSCN2135.jpg|256|192|%>

あついんです

製図室の設定温度が28度固定に。
13:30-14:30はピークカットで冷房なし。
汗だくで製図だ・・・
で、こんな記事が出ていた。
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0407/17/news001.html
非常にびっくり。目から鱗。これはものすごい発明なのかもしれない。
どっちにしてもデザイナーがかっこ良くデザインしてほしいところだ。
「ベネトン」とか、すぐ飛びつきそう。
今日、日建学院さんにきて頂いて2級建築士受験講座のガイダンスを行った。
就職支援の一環として、日建学院さんにビデオ講座を学内で行ってもらおうと言うもの。学生料金32,500円(施設料込み)で、日建学院一般の168,000円のものと同等のものを受講でき、またテキスト・法令集・模擬試験もついている。かなりお買い得。
国立大学の独立行政法人化でこうした試みを行いやすい風潮になっては来たが、学内の手続きは複雑怪奇で辟易する。使用者人数をからトイレの水道代金、光熱費まで計算する。こういった無駄な雑務を減らしていくことも同時に行ってほしい。独立行政法人化で余計人的コストがかかっている。物品の発注手続きもそうで、昨年ですら面倒だったのにこれ以上面倒になった。だから書籍の購入、出張等完全に自腹。いちいち手続きしている時間を買っている状態・・・・(泣)

メンタルケアー

学科会議、ゼミ、演習、事務手続き、講習会参加、で一日が過ぎてしまった。3年生8名の建築ゼミへの配属が承認された。でも全然目新しい感じがしない。
さて、今日の収穫は和大の保健管理センターの宮西先生によるメンタルケアー講習会。「引きこもり」学生にどのようにせっすればいいのか?である。
和大での相談数の変化、引きこもりの定義、他の神経症・統合失調症との違いを説明してもらった。
興味深かったのは、「ひきこもり」は対人恐怖症と同じく、日本特有の現象であり、社会によって引き起こされているということだった。大槻けんじ(漢字忘れた)が赤面恐怖症を発表して世界的に注目されていたことを思い出した。(ちなみに筋肉少女帯の大槻ケンヂはあきらかに精神科医の大槻けんじから芸名をとっている。彼は読書家だし、オタク系だ。)
さらに、1980年代には韓国でも「ヒキコモリ」が起きていると言う。興味深い。
基本的に社会不適応が原因で、過去の自分、過去の失敗を悔やんでいること、そして精神分析で行われるように、「要因を分析し自身で納得すること」が治療に結びつくのではない、という。勉強になる。
なお、接し方としては、「がんばって大学にでてこい」などと言わないこと。専門家にまかせること。ひとつの社会に適応できなくとも、別の社会には適応できるかもしれない、「過声の反省」ではなく、むしろそちらに向かわせること。段階を踏んで社会にデビューさせること、だという。

ワークショップ

14日、12時和大発にて田辺市上秋津小学校へ。
6年生を対象にしたワークショップ「校舎に願いを!探索短冊ワークショップ」(M2両口令名)を行ったのだ。司会・進行、企画ともに両口主導なので少々気が楽。
ワークショップの目的は、もうすぐ新校舎に移ってしまう子供たちの現行木造小学校に対する思いや希望を引き出すこと。七夕にちなんで、「願い」を書いた短冊を、校舎それぞれその場所に結びつけると言うもの。
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いくつかとても興味深いことがわかる。ワークショップは期待通りもうれしいが、意外な意見が出てくるともっといい。
この校舎、至る所に本棚があって、いいんです。廊下がゆたか。
踊り場
そのなかで、この短冊、ちょっとはっとした。「一人静かに」する場所が、ここだったわけだ。
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ちょっと出来過ぎのような気もするけど、
こんな場所、残したいねぇ。
なお、同行していたPTA会長さんがこの場所で一言、「昔先生によく怒られた場所です。」思い出の同居・・・すね。
人のライフサイクルと、建物のライフサイクルの違い、それをどのように生活文化にうまく取り入れるのか・・・それががリノベの計画的な理論となるのではないか、とおもったりした・・・。
しかし、小学校は「コミュニケーション・メディア」としての空間としてやはり、有効であると思うな。

著作権について

大ゼミ担当
発表は、著作権概念を解説したもの、著作権にをまもりオリジナリティを重視する立場らかのものづくりのあり方を論じたもの、以上2つ。
議論は活発化しない。
知的財産権(特許・商標登録・意匠登録・実用新案・著作権・著作人格権)が混乱したのが良くなかったかと思ったが、実際には「なぜ著作権が問題なのか」がピンと来ないようだ。
忍び寄る高度情報化社会では、個人での情報発信が頻繁に行われるようになる。マス→個コミュニケーションから(マスコミ型)、個/個コミュニケーションへ。そこで問題になるのは知的財産権である。南ア・エイズ薬裁判やヒトゲノム競争に見られるような情報化社会の帝国主義(著作権の囲い込み)、大企業によるパテントの独占・・・
著作権(コピーライト)の歴史をひもとけば、複製技術との関連で生まれていることがわかる。日本語は著作権というが、英語ではCopyright、つまり複製する権利(福沢諭吉の訳語では版権)だった。これはグーデンベルグの活版印刷技術が出てきて生み出された権利であるのだ。
現在のデジタル通信社会ではたしてこのグーデンベルク時代に確率された著作権概念でいいのかどうか、まずそれが問題になるのだと思う。
今はもっと簡単にコピーして情報を加工する技術がある。そのとき、いちいちコピーライト処理雑務に追われるのは面倒だ。
さて、著作権概念を考え直し、人類が持つ知的財産をかなり緩やかに共有できればどうなるか?どんな社会が生まれ、どんなものづくりが可能なのか・・・どんな知的財産を再生産できるのか・・・
著作権・知的財産権についていいたいことは山のようにあるけども・・・
さて、みなさんどうなんだろうね?